花束を君に

広島東洋カープが25年ぶりにリーグ優勝をはたしました。


広島で生まれ育った僕も、
かつては野球小僧でした。
地域の少年野球団に入団し
それ以外にも毎日のように
公園やグラウンドや田んぼで
野球をしていました。
そしてあたりまえのように
カープファンでした。
広島市民球場にも何度も通いました。
少年野球のチームメイトたちと観に行って
客席で「態度が悪い」とコーチから大説教を受けたことも、
滅多に観られないオールスターゲーム
イチローを目にした日のことも、
どれもいい思い出です。


それでも僕は、
高校に入ると同時に
野球をやめてしまいました。
それまでほんとに野球しかやっていなかったので
他になにをやればいいのかやりたいのかもわからなくて
他になにをやるでもなく高校時代を過ごしました。
それと並行するように、
あれほど好きだったカープのことを
嫌いになった時期もありました。
興味を持てない時期もありました。
それらがなぜなのかということまで書いていると
それこそ25年くらいかかりそうなので割愛しますが、
今はかつてと同じくらい、いや、かつて以上に、
カープのことが大好きです。


そもそも「スポーツ観戦」というもの自体、
積極的にするタイプではありませんでした。
今も「野球」以外のスポーツにはあまり興味がありません。
オリンピックもニュースで結果を見る程度です。
さらにサッカーに関しては
毎日のように野球をやっていた少年時代に
Jリーグ」が誕生し全盛期を迎え
周囲がどんどんサッカーに流れていった
そんな当時のトラウマのせいか(笑)
あるいは大好きな大学時代の先輩の飲み方のせいか、
どうにも好きになれないままです。


それがこの数年、
カープの試合はすべてチェックしています。
テレビやラジオで中継がある場合は
必ず観たり聴いたりしているし、
ときには球場にもかけつけます。
それはもちろん
「おもしろい」からなわけですが、
子どものころに感じていた「おもしろい」とは、
まったく別物と言っていいほど違います。
その違いについて、
いくつか思ったり考えたりすることがあります。


野球をやらなくなった僕は、
次第にコントや漫才に夢中になりました。
「観る」ことから次第に「作る」ことにも。
「音楽」や「映画」や「ドラマ」もそうです。
笑わせたい。
おもしろくなりたい。
そんな気持ちがどんどん大きくなっていきました。
そしてそれは今も続いています。


「どうすれば笑わせられるだろう?」
「どうすればおもしろくなれるだろう?」
そんなことを考えては
失敗したり成功したり失敗したり。
そんなことを繰り返すなかでたびたび思うことがありました。
「スポーツのようにわかりやすく結果が出ればなぁ」
笑えること。
おもしろいこと。
それらには「数字」で表わせられるような「結果」はありません。
厳密に言えばないこともないのですが、
誰しもが同時に納得できるような「正解」はありません。
その点、野球はわかりやすいです。
一点でも多くの点を取ったバッターが
一点でも少ない点で抑えたピッチャーが
すごい。
「笑えること」
「おもしろいこと」
そんなことを考え悩み迷い探し続けるうちに、
スポーツをする人たちのことを
「羨ましいなぁ」なんて思っていた時期もありました。


ただ、
次第に僕は、
「結果」では表せないもの
「正解」のないもの
そんなものや人たちの
「おもしろさ」や「素晴らしさ」にも
たくさん気づいていきました。
世の中や人々のなかには
「正しさ」のものさしでは図ることのできない
「おもしろさ」や「美しさ」や「素晴らしさ」が
たくさんあるということ。
そんなことが詰まった「物語」を作りたい。
そんな気持ちも芽生えました。


2015年の冬、
黒田と新井がカープに帰ってきました。
僕が公園や田んぼで泥だらけになりながら
憧れ追いかけていたカープにいたふたりです。
一瞬にして心は「カープ坊や」に戻りました。
それからというものの、
試合だけではなくて
新聞やネットに載った記事も
多く目を通すようになりました。


夢中になって試合を追いかけるうちに、
自分の中で「ん?」と思う瞬間が何度もありました。
スポーツ選手は「結果」を出さなければなりません。
それは専門家や評論家に品定めをされるようなものではなく、
ぼくのような小さな町の小さな会社員にも
わかるほどにわかりやすい「結果」です。


僕は「結果」や「正解」のないものの
おもしろさや素晴らしさを知りました。
だけどそれは言い換えると、
「結果」や「正解」を出さない自分のことを
「許せるようになった」ということでもあります。
もちろん今も、
迷いや悩みの尽きない日々を送っていますが、
それでも数年前に比べると
僕は「許せる」ようにも「癒せる」ようにもなりました。
それは決して悪いことばかりではありません。
多少なりとも「成長」と言えるものあると思います。
それでも、
僕より年上の黒田や新井が、
同世代の小窪や松山が、
さらに若いタナキクマルやセイ!ヤー!が、
異国からやってきたロサリオやジョンソンが、
毎日のように
一点でも多くとろうと
一点でも少なく抑えようと
「結果」を出そうともがき続ける姿を観ていると、
「おもしろい!」
「がんばれ!」
そんなことを思うのと同時に、
自分の中にある「言い訳」に気づかされることが
何度もありました。


かつて、
「わかりやすく結果がでればなぁ」
そんなことを思っていた当時の僕は
そんなことを思うほどに
「結果」を
出したかったのです。
「正解」を
探していたのです。
追いかけていたのです。
誰かを笑わせること。
誰よりもおもしろくなること。


普段は優しい飲み屋のお母さんも
不調の選手のことはこっぴどく怒ります。
友人も上司もおばあちゃんもタクシー運転手も。
みんな思いっきり笑ったり怒ったり泣いたりしています。
そんな「結果」を毎日のように
追いかけ続けるスポーツ選手はすごいです。
「羨ましいなぁ」なんて思っていた自分が
「すごいです」なんて簡単に言っている自分が
恥ずかしくなるほどに
すごいです。


「結果」や「正解」がすべてではない。
もしかしたらそれらは
ほんとはどこにも「ない」ものなのかもしれない。
それでも僕は
カープの試合を観ながら、
泥だらけになってボールを追いかけたあの頃のように
頭くしゃくしゃにしながらネタを考えていたあの頃のように
「結果」や「正解」を追いかけることを
投げだしてしまってはいけないなと、
思い出したり、思ったりもするのです。


野球場で起きている出来事は、
野球だけではありません。
そこには
「会社」で起きることに
「家庭」で起きることに
「社会」で起きることに
通じるものや繋がるものも
たくさんあります。
大切なことは
なにを知るか以上に
なにを知ろうとするかなのだと思います。
それがなんであれどこであれ誰であれ、
どれだけ夢中になれるかなのだと思います。
そんなことを、
「強くなりたい」と思い実践し続ける
「強い」選手たちを見るたびに、
気づかされたりもします。


「そんなことで」
その積み重ねが
人生なのではないか。
そんなことをこの頃は思います。
それはときに、
崩れたり
すれ違ったり
することもあるけれど
それでも積み重ねていくこと。
いいことも
悪いことも
「そんなことで」を
25年間積み重ねたカープ
それは選手やスタッフだけじゃなくたくさんのファンも。
こんなドラマは
どんな脚本家にも
描けるものではないと思います。
そんなことも
「筋書き」に夢中になった今だからこそ
思うし気づきます。
結局のところ僕は今も
野球小僧のままなのかもしれません。


まとまりのない文章になりましたが、
その瞬間、
嬉しくて嬉しくて
あふれる涙を拭きながら
それでも
ぼくでも
「負けられない」
そんな気持ちもわいてきました。
今はただ、
そんな気持ちにさせてくれた
選手や首脳陣やスタッフの皆さんに
どんな言葉並べても
皆さんを称えるには足りないから
涙色の花束を贈りたいです。


おめでとう!
ありがとう!
カープカープカープ広島!
広島カープ



サマー・ソルジャー

「第一回雷門音助落語会と。」
開催から一週間が経ちました。
あらためまして、
ご来場いただきました皆さま、
ご支援ご協力いただきました皆さま、
ほんとうにありがとうございました。


終演後から今日まで、
様々なご意見ご感想をお寄せいただきました。
ありがたいお言葉ばかりで
嬉しく思っています。
それと同じように、
公演の間中、
ぼくは客席のいちばん後ろに立って
音助くんの落語を
お客さんやお店の方々の様子を
見つめながら
いろいろなことを思い考えました。
それらひとつひとつを
「第二回」に活かし生かしていければと思っています。


http://d.hatena.ne.jp/attack_21/20160402/1459599309
この日更新したblogで
ぼくはこんなことを書きました。

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たとえば、
「ここではないどこかへ」
そんな想いの詰まった表現や作品に、
僕自身、
憧れたことも
救われたことも
これまでもこれからも
人生のあちこちで、
幾度もあります。
そしてそういったものは、
これまでもこらからも
世界のあちこちで、
幾つも生まれ続けるのだろうとも思います。
だけどか、
だからか、
今の僕がやりたいこと
今の僕にやれること
そういうものがあるとするならば、
「ここでも」
「どこでも」
そんな想いから、
生み出せるものなんじゃないかと、
思ったり考えたりもしています。
今度の落語会もそんな想いを持って取り組みたいもののひとつです。

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「第一回雷門音助落語会と。」は、
ぼくが暮らしている町、
福山市で開催しました。
「第二回」もおそらく福山市での開催になると思います。
ただぼくは、
もしも来年ぼくが
京都で暮らしているならば
京都で開催するかもしれないし、
フランスで暮らしているならば
フランスで開催するかもしれないと
そんなふうにも思っています。
(このことを東京に帰る直前の音助くんに話したら、
 半ば呆れながらも驚いていました。苦笑)
この会を開催するにあたって、
ぼくが大切にしていることは
ふたつしかありません。
ひとつは、
ぼくと音助くんとでつくること。
もうひとつは、
ご来場いただくお客さんに楽しんでいただくこと。
このふたつだけです。
反対に言うと、
このふたつさえあれば、
「ここでも」
「どこでも」
いいと思っているし、
さらに言えば、
「フランスでも」
「京都でも」
「福山でも」
おなじだと思っています。


ときどき思うことがあります。
年々のように、
インターネットが繋がって、
交通事情も整備され続けてて、
「ここでも」
「どこでも」
行き来しやすくなっているはずなのに、
事情は多々あれど、
「ここなんかじゃ」
「あそこだったら」
そんなことを
感じたり言ったりする人は
相も変わらず多くいて、
結局のところ、
限られた場所に
多くの人が集い固まっている。
そんな状況に変わりはないんじゃないか。
むろん、僕だってそうです。
良くも悪くも
「ここではないどこか」に、
憧れる気持ちは常にあります。


だけどあるときから
「関係ないんじゃないか」
そんなことを、
思ったり
感じたり
考えたり
することが増えてきました。
たとえば、
今年絶好調な広島カープ
ここ数年は広島に限らず、
どこのチームの球場に行っても、
客席は真っ赤に染まっています。
ぼくもそのうちのひとりなわけですが、
ぼくもそうだし、
他のファンの人たちもそうじゃないかと思うのが、
ぼくは決して
「広島を盛り上げたい!」
そんなことを思って、
カープを応援しているわけではありません。
ただ、
カープ
野球が
大好きで
おもしろくて
楽しくて
盛り上がっているだけです。
「盛り上げたい!」と思っているのではなくて、
「盛り上がっている!」だけなのです。
それでも、
実際に他県に暮らす友人から、
「広島、盛り上がっているね。
 行ってみたいなぁ」
なんて言われたりすることがあります。
そんなとき、
むしろ思うのです。
「ここでも」
「どこでも」
関係ないんだなって。


ぼくはこれまでもこれからも、
もっともっとおもしろくなりたいです。
おもしろいことを探していたいし、
おもしろい人に出会いたいです。
それは「ここ」に居ようが「どこ」に居ようが同じです。
実際に、
「ここでも」
「どこでも」
ぼくはおもしろい人たちやものと出会ってきました。
そしてぼくはいつだってそれを、
これまで出会った人たちと
これから出会う人たちと
一緒になって探したり楽しんだりしていたいです。
そうするうちに、
「おもしろいなぁ」と、
寄ってきてくれる人もいるかもしれません。
そして反対に、
「つまらないなぁ」と思って、
どこかで別のことを始める人もいるかもしれません。
どっちもいいことだと思います。
そしてそのためにも、
「ここでも」
「どこでも」
「おもしろい!」と思うことをやって、
盛り上がっていたいと。


たとえばぼくには、
東京ラブストーリー」をつくることはできません。
だけど、
「ここでも」
「どこでも」
どこにでもあるけれどここにしかない。
そんな物語は作れるはず。
そんなことを思い考え続けていますし、
それは決して
登場人物たちが、
観光地ばかりを巡ったり
大げさな方言を話したり
そんなものではないとも思い考えています。


こんな与太話をぼくがするでもなく、
音助くんは打ち上げでこんなことを言いました。
「地方だからと言って、
 (ネタを)選んだり控えたりしたくない。
 そのとき自分が面白いと思うものをやりたい」
あらためてぼくは、
彼と一緒に「盛り上がりたい!」と思いました。


来年開催予定の
「第二回」こそが、
ぼくはいろんな意味で
「第一回」だと思っています。
「第一回」にお越しいただいた皆さまに、
そして「第二回」にお越しいただく皆さまに、
楽しんでいただけるよう、
そして、
「ここに来ないとわからない!」
そんなふうに
思っていただけるよう
「ここでも」
「どこでも」
そのときどきに
いちばん「おもしろい!」と思うことを
考えやっていたいです。


最高気温を更新し続ける今年の夏のように、
来年以降も、
「去年よりもあつい」一日を、
更新していきたいと思います。
皆さまと、
「第二回雷門音助落語会と。」で、
お会いできることを楽しみにしております。


雷門音助とぼく、雷門音助落語会とあなた

以下は
8月20日に福山市ポレポレにて開催しました
第一回「雷門音助落語会と。」にご来場いただいた皆様に
宛てて書いた挨拶文です。
当日会場に来られなくても、
開催にあたってご協力やご支援いただいた皆様に
驚きと感謝をこめまして、
稚拙な文章ではありますが
この場でも公開しようと思います。
(原文のままですが名前だけ「夢のアタック」表記に変えています)

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本日は「第1回雷門音助落語会と。」にご来場いただきまして誠にありがとうございます。
「雷門音助落語会と。」実行委員会の夢のアタックと申します。
福山のまちで生まれ育ち
現在は会社員として日々を送っておりますが、
大学時代は京都で過ごしておりました。
大学生活4年目の春、
所属していたサークル「落語研究会」に入部してきた
静岡県出身の新入生秋山くんが
本日の主役こと雷門音助です。


当時はサークル活動の時間以外にも、
ご飯を食べたり、
散歩をしたり、
部屋で映画やお笑いのDVDを観たり、
(音助の住んでいたアパートは一階がTSUTAYAでした)
毎日のようにぼくと音助は一緒に過ごしていました。


ある秋の日のことです。
ぼくは唐突に「旅行をしよう!」と音助を誘い出しました。
しかし部室を飛び出してはみたものの、
貧乏学生のふたりに観光地を巡る余裕などございません。
ふと駐車場に目をやりました。
ぼくたちが通っていた大学では京都市内にふたつのキャンパスがあり、
その間を数十分置きに無料のスクールバスが往復していました。
ぼくは「バスツアーをしよう!」と言ってそのバスに乗り込みました。
教科書を開いて予習復習をしている学生たち、
イヤホンをして眠っている学生たち、
そんなごく日常的で静かな車内で
ぼくらだけは「旅行気分」で浮かれていました。
バスが京都駅を通り過ぎようとした頃、
ぼくは歩道にあった1本の樹を眺めて言いました。
「紅葉がきれいだね」
実際のところその樹には紅葉どころか枯葉ひとつ残っていませんでした。
しかし音助は笑って言いました。
「ほんとですね!」


月日は流れ、
ぼくは福山に戻り会社員に、
音助もいちどは静岡に戻って会社員となったものの、
彼の骨の髄まで沁み込んだ「落語」への想いは
剥がれることも薄まることもなく、
やがて東京に行き雷門助六師匠の門を叩きました。
その後は年に数回、
東京に行く用がある際などに連絡を取り合いながらも、
修行中の身である音助は
予定がみえ辛かったりお酒も慎んでいたりで、
かつてのようにゆっくり話をすることはむずかしくなっていました。
ただ、
客席から観る彼の姿は
そのたび見違えるかのように逞しくも頼もしくもあり、
しかし高座を降りると一転、
変わらない生真面目さが滲んだ笑顔を浮かべる音助と、
ぼくはひとつの約束を交わしました。


「修業が明けたら福山で落語会を開こう」


2016年2月、
雷門音助は晴れて二ツ目昇進を果たしました。
電話越しのぼくは満足に祝いの言葉もかけぬうちから
「いつ会を開こうか?」と訊ねていました。
そして本日、
多くの方々にご協力いただき
「第1回雷門音助落語会と。」を開催できる運びとなりました。


あの秋の日も今も、
雷門音助は「枯葉ひとつない樹に紅葉を見つけることのできる」人間です。
それは「落語」というもののおもしろさにも通じることのように思えます。
高座で語られる物語はひとつでも、
それを客席で聴く人々の目の前や頭の中には
それぞれに違った登場人物の顔やまちの景色が浮かんでいるはず。
誰かの物語が、
自分だけの物語になっていく。
そんなふうに、
演者だけではなく観客もそれぞれに
「物語を作っていく」おもしろさが落語にはあります。


あの日ぼくらが見た紅葉のように、
「雷門音助落語会と。」を通して、
みなさまひとりひとりの心の中に
それぞれにしか見ることのできない
色や形の光景が浮かび刻まれるのならば、
それ以上にうれしいことはございません。
まだまだ未熟な者同士ゆえ、
進行等におきまして拙い面も多々あるかと思いますが、
どうか最後までごゆっくりお楽しみください。


2016年8月20日
「雷門音助落語会と。」実行委員会
夢のアタック


ばらの花

毎週ここになにかを書いたあとはいつも
「足りない」ところ
「過ぎてる」ところ
そんなところばかりが気になって
落ち込んでしまう。
「言いたいことも言えないこんな僕」なんて
まったくバカだよなぁと思う。


そんなバカの戯言だと思って
見逃してもらえれば幸いですが、
「ぴったり」な人なんて
いないんじゃないかと思う。
それは僕自身が、
「足りない」ところ
「過ぎてる」ところ
それらだらけの人間だから
そんなふうに映るのかもしれないけど
ふとまわりを見渡してみると
「足りない」ところ
「過ぎてる」ところ
それらだらけの人間だらけだよなぁ
と思う。
そしてそんな
「足りない」ところ
「過ぎてる」ところ
それらこそが
その人だよなぁ
とも想う。


でこぼこだからこそ
ぶつかりあうこともある。
磁石みたいに
「足りない」ところと「足りない」ところ
「過ぎてる」ところと「過ぎてる」ところ
それらは常にはねのけあうのかと言うと
これが決してそうとも言い切れず
誰かの「足りない」ところを
誰かの「足りない」ところが
補ったり
癒したり
支えたり
そんなこともあるから不思議だ。
むしろ
みんながみんな
「ぴったり」ならば
僕らは通り過ぎてしまうだけではないだろうか。
ハローもグッバイもサンキューも言わなくなって。
でこぼこだからこそ
笑いあうこともある。


今日もまた落ち込むかもしれない。
だけどバカはバカなりに
バカバカしいって気持ちに負けないように
バカやっていようと思う。


明日は投票日ですね。
昨日までと同じように
友だちや家族と話してみたり
ひとりで考えてみたり
そんなふうに今夜も
よく考えてよく食べてよく眠りたいです。
それは明日も明後日もいつまでも。
でこぼこな道を
でこぼこな人たちと
思いっきり泣いたり笑ったりしながら
歩いていたいです。


読んでくださってありがとうございます。
いきなりですが、
更新をしばらくお休みします。
また夏のまんなかにお会いできればと思います。


いろんなことに夢中になったり飽きたり

自分の「考え」に縛られないように。
そんなことを思ってみても
自分の「考え方」からは逃れられていなかったり。


「共感はいらない」
そういった表現に
共感してみたり。


「広い視野を持ってこそ」という人と
「小さなことからコツコツと」という人と
それぞれに「ない」ものを
補い支えあっていければと
思ったり考えたりもするけれど
実際のところは
攻めあってばかりいたり。


「喧嘩をしてほしくないのに」と思う人たちが
喧嘩をしている姿を見るのは哀しい。
「喧嘩をしたくないのに」と思っている者同士が
喧嘩をしている姿を見るのも。
だけど同時に、
喧嘩をし合える仲がうらやましかったり。


お酒を飲むのが好きだ。
だけどお酒を飲んでいる自分は好きではない。
誰かとお酒を飲むときはいろんな話をする。
仕事の話や友達の話や野球の話や選挙の話。
ようするにどれも「人生」の話だ。
あるとき一緒にお酒を飲んでた同僚に
こんなことを言われた。
「お酒を飲んでいるときの感じを
 職場でも出していってほしい」
僕は「無理だ」と言った。
なぜなら職場ではお酒を飲まない。
それに僕はお酒を飲んでいるときの自分は好きではない。
だけど誰かとお酒を飲むのは好きだ。
「人生」の話をすることも。
出口の見えない口論と酔いを、
夜な夜な繰り返したり。


11連勝に笑ったり
1敗に泣いたり。


いろんなことを
考えたり
思ったり
言ったり
聞いたり
悩んだり
迷ったり
間違えたり
わかったり
わからなかったり
わからなくなったり
得たり
失ったり
憶えたり
忘れたり


いろんな人と
出会ったり
別れたり


いろんな日々を
通り過ぎたり
すれ違ったり
過ごしたり


そんなふうに
今年もまた
あつい夏を迎える所存です。


ローラースケート・パーク

「簡単」なことを
難しく考えたり
難しく言ったり
することや
しているものには
あまり感心できません。
ただ、
「難しい」ことは
難しく考えるほうが
「難しい」と言うほうが
いいんじゃないかと思っています。
なにが「簡単」なことで
なにが「難しい」ことかは
自分にしかわからないことだとも。


「難しい」ことを難しく考える。
たとえばその途中、
友人や家族に、
「そう難しく考えるなよ」
「こう考えてみたら?」
そんなふうに
言ってもらえたり
一緒に考えてもらえたり
そうしたことで
「こんなに簡単なことだったのか!」
なんて
気づくことや
わかることも
あると思います。
それでも、
それまで、
「難しいことを難しく考えた」時間は、
決して無駄ではないし、
それを意識していようがいまいが、
そんな時間があるからこそ
「簡単に思える」ものに、
繋がるんじゃないかと思います。


難しい映画や本を
「わからない!」
なんて思いながらも
繰り返し何度も
読んだり観たりすることがあります。
するとそのうちに、
「こういうことだったのか!」
「そういうことじゃなかったか!」
なんて気づくことがあります。
それはいつも初めてのことように。
わからなかったことがわかる。
わかっていないってことがわかる。
わからないってことがわかる。
わかっていることも
わかっていないんじゃないかと、
思う。
感じる。
考える。
想う。
「わからない!」
だけど
「おもしろい!」
そういうものに触れることも
大切なことだと思います。


検索をすれば
大体の「答え」が出てきます。
それが自分が求めた「答え」だと
思うことも感じることもあります。
それらのすべてを否定したりはできません。
ただ、
「わかる」ことが
「とまる」ことに
ならないように。
「5分でわかる」ことは
よくもわるくも
「5分でわかる」ことでしか
ないんじゃないかと思います。
持っている「答え」が違えば
抱えている「問い」も違う。
さらにそれらは
自分のなかでも社会のなかでも、
絶えず動き変わり続けている。
そこでそのときどきに出会うものは
「きっかけ」や「ヒント」で
あればいいなと、
そう思っています。


『難しいことはわかりやすく
 わかりやすいことは面白く
 面白いことは深く』
 by 真島昌利


そういうものに出会うたび、
「最強だ!」と思うのは、
それを手掛ける人たちの
伝えようと、
届けようと、
繋げようと、
変えようと、
変わろうと、
「難しいこと」に立ち向かう姿が
浮かび感じられるからです。
そのたび、
頑張ろう。
そう思います。


この頃は、
これまで以上に
「難しい!」と思う出来事に
出会うことが増えてきて、
今日はどこか自分自身に向けて書いているような
そんな文章でしたが
それでも誰かの「ヒント」になれればいいなと
そんなふうにも思っています。
「情弱」
なんて言葉がありますが、
「わかる」ことは
「わからない」ことを
攻めるものではなく、
深めるものや
繋げるもので
あってほしいと、
思ったり願ったりしながら
転び転がり続けていたいと思います。
また来週。


インターネットブルース

                                                                                                • -


「自粛」
という言葉が広まったとき。
「自粛しなきゃいけない」
と言う人たちに対して、
僕は多くの人たちと同じように、
強い違和感をおぼえていたのですが、
それと同じくらい、
そういった人たちに、
「自粛してどうすんだ」
と言って反論をする人たちに対しても、
強い違和感をおぼえました。


「自粛しなきゃいけない」と言う人、
「自粛してどうすんだ」と言う人、
僕がそれぞれの人たちに言いたかったこと、
それは、
「あなたに決められる筋合いはない」
ということ。


「自粛」とは、文字通り、「自分」が決めることです。

                                                                                                • -


これは今から5年前にここに書いたものです。
5年が経って今
こんなふうに思ったり感じたりすることは
もうないだろうかと言うと
そんなことはなく
今でも似たようなことを感じることはあって
さらにそれは増えていることのようにも思います。


「ネット社会」
という言葉がありますが
僕はインターネットを社会だと思ったことはありません。
『この世界にあなたは関わっているの。
 どうしようもなく、関わっているのよ』
大好きなドラマ『セクシーボイスアンドロボ』にある
そんなセリフの通り、
それがどんな形であれ、
人は誰しも皆「社会」に関わって生きています。
だけど
インターネットに関わらずに生きていくことは可能です。
そんな人もたくさんいます。
それでも
「ネット社会」
なんて言葉が生まれるのは
そこに
たくさんの人が
いろんな人が
いるからなんだと思います。


この頃僕は
このままだといつか
インターネットには
「他人事じゃないんだぞ!」と
他人事のように言う。
そんな人しか残らなくなるんじゃないかと
そんなことを思ったりしています。
他人事だと開き直る人も
自分のことだと受け止める人も
次第に背中を向け
そこにはそんな人たち、
あるいはそんな人たちの「言葉」だけが
残るんじゃないかと。
そうなれば自然と
「ネット社会」
なんて言葉を
目や耳にすることもなくなるのでしょう。


それでも僕は
今だってそうだけど
インターネットのおかげで
楽しい思いや
嬉しい思いも
たくさんしてきました。
そしていつの日か
こんな僕でも「親」になれるときが来たとして
ある日子どもに
「インターネットなんて見てはいけません!」
なんて言ったりすることがあるかもしれません。
そのとき頭にあることは、
「(こんなにおもしろいもの)見てはいけません!」
なのか
「(こんなにつまらないもの)見てはいけません!」
なのか。
言ってることはむちゃくちゃですけど
前者であったらいいなぁなんて思います。


だから、
と言うわけでもないけれど、
いつだってここには、
僕がおもしろいと思うこと
僕がおかしいと思うこと
そんなことを、
僕の言葉で書いていたいです。
「僕」の「僕」のと言うけれど
それらはぜんぶ
「社会」で憶えたものです。


笑われたっていい。
バカにされてもいい。
そんなふうに思うことも増えてきました。
けれどそれと同時に
「笑われたくない!」
「笑わせたい!」
そんな思いも
忘れたことはありません。
そんなふうに
僕にも
社会にも
たくさんの「矛盾」があります。
けれども
だからこそ
誰かに話をしたり
誰かの話を聞いたり
できるし、
したいんだと思います。
読んでくださってありがとうございます。
また来週。